コロナ禍のモラトリアムはオタクに何を齎したか

2020年も早くも年の瀬だ。年末である。
年末の恒例行事とは何か? Music Rainbowだ。
MR07めちゃくちゃ良かったね。私は年末年始が最も忙しい仕事に就いているので、一生観られないイベントだと思っていたが、初めて観ることができてとても嬉しかった。


さて、2020年を振り返っておきたい。
今年は私の30年に満たない人生史の中で、2011年以来の未曾有の年であった。
しかし、当時の私はオタクでありこそすれ、当然だがデビュー前の雨宮天さんには出会ってないし、特定の誰かを応援していたわけでも、イベンターだったわけでもない。


何が言いたいかと言うと、ライブやイベントを生活の中心に据えていた人間。いわば「生き甲斐」にしてきたコアなオタクたちにとって、こんなに辛い一年はなかった。
それくらい、今年は目に見えない「コロナ」という外敵によって、尽く「推しに会う機会」を奪われ、駆逐され、3月以降のほぼ全てのイベントを壊滅に追い込まれた。


こう書くとめちゃくちゃ重く思えるが、働き始めた2015年から多かれ少なかれ、私は雨宮天さんにお会いすることだけを目標に、或いは生き甲斐にしてきた節がある。
お会いできる当日を迎えると、次は○○のライブ。その次は○○のリリイベ。
そこまでは頑張ろう。そこまでは生き延びよう。


そんな風にして今日まで生き長らえてきたのだ。
だから、私はそれ以外の生き方を知らなかった。


2月にはまだまだ対岸の火事だと思っていた。
3月でもまあ、長くて2~3ヶ月の辛抱だろうと思っていた。
4月に緊急事態宣言が発出し、いよいよ大事になってきたぞと感じ始めた。

多くの人たちが抱く感想としては、大体そんなところだろうと思う。
そして今なお、第3波は留まるところを知らず、希望の出口は見えてこない。


断っておくが、冒頭で年末年始が一番忙しいと書いたように、私が就いている仕事は緊急事態宣言が発出されようが、大震災が起きようが基本的には休みにならない。
ある意味ライフラインを支えているとも言え、むしろ仕事は忙しくなった。


これが何を意味するか。答えは「生きてる意味が分からない」だ。
仕事がなく稼げない人の話を聞くと、どちらが良いのか私には分からなかったが、少なくとも次にいつ推しに会えるか分からない状況下で働くことは本当に辛かった。


それでも、働き始めて6年目。何度も修羅場を潜ってきたから、肉体的には一番やばかった頃に比べればいくらかマシだった。問題は確実に削られていくメンタルだ。
夏から秋にかけて、明らかに体の不調が見られた。
自覚はなくとも、推しに会えないストレスは、確実に体を蝕んでいたのだ。


まず、朝食が食べられない。
自慢ではないが、私は朝食を抜いたことがない。
健康的な生活は朝食から、が母の口癖であった。
だが、食べると腹痛と吐き気を催すことが常になった。

朝の不調がいくらか落ち着いて昼は普通に食べる。
そして夜、何の楽しみもない日常から逃げるように、酒に走ることが増えた。
そのまま一人酒で寝落ちし、また朝に戻る。そんな毎日であった。


虚ろな目で忙しく仕事を送る中でも、私は仕事にはプライドを持っている。
お客様に迷惑をかけない仕事。それが私の信念だ。
それでも、謂れのないクレームを受けることはある。

ある月、週に3回も身に覚えのない申告が入った。こちらは100%の仕事をしているつもりでも、証拠がなければお客様の方が正しい。それがサービス業の掟なのだ。


もちろん仲間は私に非がないことは理解しているだろうが、さすがに辞めたくなった。
何のために働いているのか。何のために生きているのか。
その意味が分からない中で、プライドさえ傷つけられ、私はなぜここにいるのか?


そんな自問自答をしながら日々を送り続けた。
一切合切の全てを飲み下し、朝になったらまた仕事に出る。

いつしか私は、あんなに熱中し好きだったゲームアプリも、推しが出ているライブBDも観られなくなっていた。楽しいと思えない。観ると理由もなく涙が溢れる。


全てが遠い過去に思えた。過去の栄光だ。
もう、戻ることのできない日常に思えた。

その頃にはテレビのコロナ関連のニュースはまともに見なくなっていた。
何をどれだけ我慢したって、感染者数は一向に減らないではないか。
これ以上何を我慢しろと言うのだろう。希望はどこにあるのだろう。


"”幸せとか優しさが見えなくなることを
「くじける」と呼ぶのでしょう
少しだけ息ついて
自分を許せた時に見える世界が君の住む場所
""


自分の手の中のウォークマンから聴こえる声だけが心の支えだった。
私が生きるのは、推しが生きているからだ。

SNSの何人かの仲間たちが、メンタルを病んでいる様子が見て取れた。
このまま現場復帰できないまま、フェードアウトしていく人もいるだろう。
あれだけ悩んでいた「自己満足」も「承認欲求」も消えて無くなった。


ただ、オタク的モラトリアムの中でも、私の生き甲斐は雨宮天さんでしかなかった。
「屈服クッキング」と「MR07」によって、息を吹き返した私は確信を強めた。
けれど、説得力はないかもしれないが、以前のようにガチ恋的「執着」ではない。

何というか、今はとてもフラットな気持ちでいる。
「MR07」が、活動を応援してきた当初のTrySailのように思えたからかもしれない。
2015~16年頃の、懐かしい感情を思い出したというか、そんな姿が見られたのだ。


考えてみれば、長い長い「コロナ禍」にあっても生き長らえてこられたのは、どうあっても「推しの力」によるものが大きい。ほぼ全てと言ってもいいだろう。
「声優」という本職の仕事だけでなく、それ以外にも

・そらのはるやすみ
YouTube公式チャンネル開設
・「奏」弾き語り動画
・3rdアルバム「PiB」発売
・PiSオンラインライブ
・15万人お礼動画&おうちチャレンジ
・あおしゃべり
・PiS同時試聴会
・屈服クッキング


こんなにも、ファンとの交流の機会を増やしてくれたのだ。
もし、このような状況下にならなかったら、確かにいつものように楽しいオタクライフを送っていたかもしれない。けれど、今の世界線は絶対に来なかっただろう。

そう考えると、2020年も良かった。悪くなかったと思える。
何より2020年は元来、私にとって実りのある「収穫の年」だったのだ。


1月に偏ってはしまうが、ハイライトがてら少しだけ語っておこう。
「HT!」のサイン会で初めてきちんと自分の言葉で想いを伝えることができた。
「TCS」という5年間の集大成とも言えるライブで、皆さんの力をお借りして、初めて想いを形にした「楽屋花」を贈ることができた。


そしてコロナ禍になってからは、とにかく「ラジオ」という媒体で想いを伝えることに力を注いだ。その結果、今日現在で3通のメールを読んでもらうことができた。
トラハモで1通、MSS TBで2通である。
あれだけ長らく日の目を見なかった悲願が、遂に達成されたのだ。


こうして書いてみると「Song for」の歌詞にあるように、幸せが見えなくなっていただけなのかもしれない。「くじけて」しまっていただけなのかもしれない。

だって、こんなにも「想い」を伝えられた年だったのだから。
天さんから「心の距離」を詰めてきてくれた年だったのだから。

今の私は、2021年が来ることを楽しみにしている。
来年はどんな「青い人生」を送ることができるのだろう?


""だけど逢いたいよ 挫けない君に
心のまま理想を生きて
Next Dimension 君のそばで逢おう
""

カッコイイか、カワイイか

あなたはカッコイイ女性と、カワイイ女性。どちらが好みだろうか?
一見相反する二律背反、これを両立してしまう女性がこの世に存在する。

雨宮天さんである。

彼女が他者から「カッコイイと思われたい」願望を持ち合わせていることは、ファンである青き民にとってもはや周知の事実ではあるが、それでもここまで高い次元で完成された両面を見せられてしまっては、「天は二物を与えず」という言葉の真偽を審議せねばならず、私たちはどんな難事件をも超える迷宮に足を踏み入れることになるだろう。


さて。最初の質問に話を戻そう。私が聞きたいのはつまりこうだ。
あなたはカッコイイ天さんと、カワイイ天さん。どちらが好きですか?

両方好き。それはそう。それでも敢えて聞いてみたいのだ。
ちなみに、私はこれはもう自信を持ってはっきりと断言できる。


カワイイ雨宮天さんである。

同ユニットにカワイイの権化か、はたまた地上に舞い降りた妖精か、と小一時間考えた結果「トニカクカワイイ」という結論しか出てこない麻倉ももさんという御方が存在するが、雨宮天さんのそれもまた常軌を逸しているレベルである。


「カッコイイ」作品を打ち出したものとしては、2nd写真集「10looks」や3rdアルバム「Paint it, BLUE」完全版に付属するフォトブックなどが挙げられる。

そのどちらも非常に完成度が高く、天元突破の様相を呈してはいるのだが、このブログで何度か申し上げているように、私は雨宮天さんの笑顔が好きなのだ。


そんな天さんが満を持して、自身の「カワイイ」を世に知らしめた作品として挙げられるのが、自身10枚目のシングル「PARADOX」と3冊目の写真集「High Tension!」だ。

端的に言って、バルカン半島も真っ青のヨーロッパの火薬庫である。
もはやダイナマイトに等しい。カワイイの暴力とはこのことだろう。

私とて例外でない。この2つの作品を拝見することは命懸けであった。
何を大袈裟に、と思われるかもしれないが、本当にそうなのである。


私にひと度「High Tension!」を眺めさせれば、冒頭数ページで妙な呻き声を上げながら心臓を抑え、それでいて顔面のニヤニヤは抑え切れず、何度もページを開いては閉じ、挙げ句そのまま自室のベッドに寝転んで永眠してもおかしくない有様の代物なのだ。

これはもう青き民の聖典か印籠といって差し支えない。
全く以て、推しは健康に良いが心臓に悪い。


そして配信限定ではあるものの、彼女の最新シングル「君を通して」は、自身の持ち歌の中では「異質」とまで謳われた「PARADOX」に次いでカワイイ路線の曲だ。

雨宮天さんがヒロインとして出演した「彼女、お借りします」最終話の挿入歌として流されたこの曲が、敢えてキャラクターソングではなく、本人名義での歌唱であったことに、果たしてどのような経緯があったのかは少ない情報の中から精査し想像するより他ないわけだが、「PARADOX」での反響を受けて雨宮天さんの「カワイイ」を強調していこう、と製作スタッフ陣が考えていたとしても何ら疑問はない。


というか、雨宮天さんは自身の可愛さを正しく定義すべきである。
(お、なんかリケ恋っぽい)

何が言いたいかと言うと、私たちファンの声によって「君を通して」が本人名義のカワイイ曲として誕生した、というと言い過ぎかもしれないけれど、決して小さからぬ影響があったのではないか、と私は密かに思っているし、そうであったら嬉しい。


クールな天さんも好きだが、カワイイ天さんはもっと好きなのだ。
ファンの声や期待には応えたい、と言って下さる青き民に優しい天さん。

私はこれからも彼女に、死線を彷徨わされることになるのだろう。
無論、私はそれを望んでいる。ファンとは往々にして、そういうものだ。
(お願いです早く推しの供給を下さい)

誕生日に寄せる想い

今日は私の誕生日である。自分自身、誕生日に対する感慨はほとんどない。
この歳まで来ると、逆にいつもと変わらない、特別でも何でもない日であってほしい、とさえ思うようになった。平穏が一番である。


けれど、たとえ一言でも、フォロワーさんに祝っていただけるのは嬉しい。
このリプライの数は、私が築き上げてきた信頼できる人の数である。
このいいねの数は、リプライを送るほどではないにしても、私に対して何か思うところがあって、それをいいねで表現してくれた人の数である。



尤もらしく言ってるけど、実はちょっと泣きそうになった。
いつもありがとうございます。皆さんに心から感謝しています。


   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


この一年を振り返ると――というか20代のほぼ大半を雨宮天さんに捧げているような節があるけれど――それでも、敢えてこの一年にスポットを当てるとすれば『想いが成就した一年』と言えるのかもしれない。

待ってほしい、話は最後まで聞いてほしい。
片思いなりに、もしくは一人の青き民なりに、という枕詞をつけよう。


私の28歳は『The Clearest SKY』楽屋花企画の本格化から始まっていた。ちょうど御花屋さんとの話し合いや、イラスト担当との摺り合わせが活発になり始めた頃で、その日も何かと忙しなく「推し事」をしていた。

年を跨いで2020年になると『High Tension!のサイン会』が開催された。
私にとっては初めての、いわゆるちゃんとした形での「接近」である。


「推し事」をしている方なら誰しもそうであると思うのだが、推しと「直接言葉を交わした」という事実、経験は一生の思い出だ。
短いながらも御本人に想いを伝えられた、それが成就でなく何なのか。

人はそれを自己満足と呼ぶかもしれない。実際、そうなのかもしれない。
それでもいいのだ。人がどう表現しようと、自分が感じた想いこそ真実だ。


そして「TCS」への両日参戦。
初めての御祝花企画、それはつまるところ「想い」の結晶であると思う。

私だけでなく、私の想いに応えてくださった御花屋さん、私を信頼して集ってくれた沢山の人たちの「想い」が形になったものだ。
「想い」を「形」にできた経験。これも成就と呼ばずして何と呼ぼうか。


その後、コロナ禍でリアルイベントは消滅の危機に瀕することになったが、天さんは様々な形で私たちとの交流の場を設けてくれた。

Twitter企画の始動、YouTubeチャンネルの開設、あおしゃべりという生配信、PiSオンラインライブ、その同時試聴会イベント……。

彼女が私たちのためにしてくれること、その全てが想いの成就である。
こんな時世になってしまったからこそ、感じられる想いが確かにあった。


最後にラジオへのメール。夏以降、私が最も力を入れたのはここだった。
コロナ禍でもできる応援の形、それを考えた時に最も邪魔にならず、それでいて遅滞なく気持ちを伝えられる方法がメールだった。

振り返ってみると、8月は月10通ペースで送っていた。
しかし心境の変化もあって、その後は大きくペースダウンしている。


天さんが時折してくれる「ファンとのコミュニケーション」の話。これも大切なやり取りの一つの形なんだと、私は考えるようになった。
数は少なくていい。読まれなくてもいい。ただ、伝わりさえすれば。

彼女がラジオで話してくれたこと。ファンに聞きたいと思ってくれたこと。
それに返す感覚で、感想や想いを御手紙と同じように綴ればいい。


本当のところは分からないけれど、私はそんな風に考えるようになってから、メールを読んでもらえるようになった気がしている。

初めてメールを送ってから5年半読まれなかったにも関わらず、この2ヶ月で3通読んでもらえた。これも想いの成就としか言いようがない。


一時は自分を見失い、このブログで感情を吐露してしまったこともあったけれど、間違いなく私にとって必要で大切な一年だった。
次は20代最後の一年。私は私らしく、変わらずまた想いを紡いでいく。
次はリアルイベントで、また「心を通わせることができる」と信じて。

『Paint it, SKY』OL

好評により配信期間が12日まで延長された『Paint it, SKY』オンラインライブ。
9日には天さん御本人も交えた『同時試聴会』が予定されており、またファンとの交流の場を設けてくださったことに、心より感謝申し上げたい。


ところで、私は「生バンド至上主義」ではない。
今までこのことを口にしたことはなかったと思うが、TCSでの「生バンドライブ」の第一報が出た時も、実を言えばちょっと複雑な心持ちだった。
しかし推しの挑戦は全力で受け止めたいと思ったから口にはしなかった。

結果から言えば、生バンドライブの『The Clearest SKY』は大成功だった。
私の人生史上、最も楽しい二日間だったと言っても過言ではないくらいだ。


TOS千秋楽以上のライブ――。
ファンでありながら、どうしてもそんなライブを思い描けなかった私が、あの日得た感動は間違いなく「生バンド」への挑戦があったからだ。
それを否定する材料はどこにも見当たらない。素晴らしいライブになった。

ただし、ただしだ。
もちろん初めての挑戦だったということもあるのだろうが、初日の演出や音響回りは必ずしも成功してはいなかったという印象は拭えない。


なぜなら、楽器の音響が大きすぎて、天さんの声量が完全に負けていた。
ライブにおける「主役」は天さんの美声であり、歌唱力であり、表現力だ。
脇を支えるはずの楽器が、メインに来てはならない。と、私は思っている。

その観点から言えば、2日目での修正は見事だった。
少なくとも1日目に感じた懸念は、ほとんど気にならないものになっていた。


あとは「原曲キー問題」である。
こちらは私自身はさほど気にならなかったが、大人気曲「チョ・イ・ス」の原曲キーが下げられた歌唱にはいくつかの意見が飛び交った。

敢えてキーを下げるならば「生バンドに拘らなくとも音源を流しておけばいい」という意見は、まあ分からないでもない。その通りだ。

しかしながら、それら全てを引っ括めて彼女の「挑戦」だと受け止めていたから、私は今日まで口には出さずに見守ることに徹していた。


   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


ここまでが前日譚である。
さて、本題の『Paint it, SKY』オンラインライブ。
本来開催されるはずだったツアーの代わりに用意された、収録配信ライブ。

収録とは言え、今回もバンド演奏である。「天ちゃんバンド」勢揃いだ。
見せ方に拘った、カジュアルなライブというものが一体どんなものなのか。


「Thumva」という配信媒体の前評判が良くなかったので、あまり期待しないで置こうと思っていたのだが、率直に素晴らしいライブだった。

私は配信ライブに明るくないが、結論から言って、配信ライブとしてできる、ほぼ最高レベルのパフォーマンスだったのではないだろうか?

前評判のように音や映像が止まることもなく、CD音源以上の「ライブ感」溢れる音質・画質による映像をファンに届けてくれたし、天さんが初めてライブで弾き語りをした『奏』は間違いなくファン必見のものだった。


少し話が逸れるが、天さん渾身の3rdアルバム『Paint it, BLUE』について。
基本的に「推し全肯定」の私だけれど、実はそこまで受け止めきれていなかったというか、まあ言ってしまえば「刺さって」いなかった。

それは私が「楽曲はライブを経て完成」するものだと思っているのもあるが、それを差し引いても「今回はちょっと違うな」と感じていた。

「お前の批評なんか知らん」と思われるのがオチなので、楽曲に関するマイナス意見はTwitterでは口にしないが、まあブログなら良いだろう。


とあるフォロワーさんの言葉を借りるなら「一生リピートする」と確信できるくらい好きな曲が、アルバム新曲の中にあるか?という話だ。

1stアルバム『Various BLUE』なら「After the Tears」「RAINBOW」
2ndアルバム『The Only BLUE』なら「Lilas」「GLORIA」が私はそうだ。

完全に私の好みになるが、これらの4曲は雨宮天さんの楽曲の中でもトップレベルに好きな曲で、それが今までアルバム新曲の中にあった。
ところが、今回のアルバムには突出して好きな曲がない。


原点回帰の「アップデート版」という表現が音楽ナタリーのインタビューの中にあったけれど、確かにどの曲もいい曲だ。嫌いではない。
だが過去の曲に「勝っている」とは、私にはあまり思えなかった。

つまり、これは音楽チームが一新されたという天さんの音楽に「私は向いていない」ということを意味している気がした。要は角田プロデューサーよりも前プロデューサーの選曲の方が、現時点では私は好きなのだ。たぶん。


   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


脱線した話を戻そう。
『PiS』で披露された新曲を、今の私はかなり好きになっている。
元々「いい曲」だったのだ。当たり前である。

だが、今回より重要だったのは「トークコーナー」の存在だった。
ご存知のように「角田プロデューサー」と「天ちゃんバンド」がトークに参加してくださったわけだが、これで私の見方が大いに変化した。


配信ライブならではの砕けたお話を聞けたことで、それぞれの関係性や人柄が垣間見えたし、より親近感が湧いて取っ付きやすくなった。

こんな風に楽しい人たちが集まって、みんなが全力で作ってくれた曲なら、もっと楽しめるしもっと好きになれると、確信することができた。

オンラインライブを経て、ようやく『Paint it, BLUE』を受け止められた。
1ヶ月間感じていた凝りが消えて、今はそんな穏やかな心持ちでいる。


何が言いたいのかというと、有り体に言って、まだ見ていない人はぜひ見てほしい。
一見する価値のある配信ライブだった、ということである。
「Next Dimension」が、「Queen no' cry」が、今の私には物凄く刺さっている。

早く現地で、生バンドの演奏に支えられた天さんの歌声を全身に浴びたい。
「彼女」と「彼女を好きな人たち」と、青い光の中で心を通わせたい。
今の私の願いは、ただそれだけだ。

取り戻した想い

2020年9月27日を最後に一度SNSから距離を置き、ずっと考えていた。
青き民の一人として、私はどうしたいのか。どうありたいのか。
何がしたいのか。何をしたくないのか。私の信じるものとは何なのか。


Q:どうしたいのか?
A:天さんに笑顔でいてほしい

Q:どうありたいのか?
A:推しに見合うファンでありたい

Q:何がしたいのか?
A:届けてくれる気持ちを受け取ってお返ししたい

Q:何をしたくないのか?
A:天さんを悲しませること

Q:信じるものとは何なのか?
A:私のしてきたことが、少しは天さんの笑顔に繋がる


しかし、それが独りよがりの行動なのでは意味がない。
以前記事にしたように、私は「自己満足」を忌み嫌っていた。
己の中の「自己満足」に、ずっと抗い続けてきたのだ。

私の気持ちは、行動は、決してそんなものではない、と。
だから、仲間の気持ちを集めて、届けることを大切にした。
ところが「その日」、私の信じるものが大きく揺らいだ。


発端は「A賞・生電話」と「ラジオのメール」である。
私は密かに「ライバル視」している青き民の方々がいた。
接近常連のあの人、お便りを毎週読まれるあの人、など。

そうだ。「彼ら」は「単独」で、憧れ続けている「彼女」と、
心を通じ合わせ、それを確信できる「機会」を勝ち得ている。
彼らが「勝者」で、私は「敗者」で「負け犬」なのだと感じた。


芽生えたのは「劣等感」で、「嫉妬」で、「自己嫌悪」だった。
そう思ってしまったことに、自分自身に対して愕然とした。
想いが強すぎて、私は仲間に「敵意」を抱くようになっていた。

ここでも何度となくお話している『誓い』メイト回リリイベ。
私が天さんに、彼女を支える青き民に大いに「敬意」を抱き、
自分自身も「本気」になることを誓った、忘れ難い大切な原点。


けれど、いつしか「敬意」は「敵意」に変わってしまったのだ。
そのことに気付いたから、私は天さんとSNSから距離を置いた。
今の自分は、私が理想とするファンの姿から程遠いものに思えた。

だが「ガチ恋」で「ツイ廃」の私には、簡単なことではなかった。
ファンになって「彼女」のことを考えなかった日は一日もない。
考えないのはそもそも無理な話だった。距離を取るのがやっとだ。


止む無くTwitterをアンインストールする強硬手段を取ってみたが、
それをツイートしようとする自分に愕然とした。色々末期である。
それでも、自分を見つめ直す時間は十分すぎるくらいに取れた。

そんな時も頭の中に浮かぶ言葉はいつだって「彼女」のものだった。
「Song for」であり「Next Dimension」であり「Queen no' cry」だ。
無意識に涙が溢れた。一度流れた涙はなかなか止まってくれない。


大切なものは、信じたものはいつだって「そこ」にあったんだ。
涙を流しても、傷ついて立ち止まっても、かっこ悪くてもいいのだ。
ただ、私は私らしく。「私」は「私」でさえあればよかったのだ。

誰が為じゃなく。もがいてできた心の傷さえ、勲章にしてやろう。
私は私の信じる心を、信じた道の美しさを大切にすればいいのだ。
物語は自分にしか描けない。溢れ出した涙は、光に変わった――。


とまあ、随分とポエム染みてしまったが、私は原点を取り戻した。
いつだって「天さん」と「青き民」へのリスペクトを忘れずいよう。
やってきたことへの「自負」はあっても、「傲って」はいけない。

そして、天さんはあくまで「自分のしたいこと」をしているのだ。
であるならば、私も「天さんの笑顔のために」という前提は崩さず、
「私のしたいこと」をすれば良い。シンプル イズ ベストである。


「勝者」と「敗者」だとか「見返り」だとか「承認欲求」だとか。
そんなもんは、全部クソ喰らえだ。必要ない。吐いて捨てればいい。
「彼女」も言っていたはずだ。「好きを楽しまなきゃ損」なのだ。

というわけで、今日から少しずつ復帰して参りたいと思います。
御心配をお掛けしてすみませんでした。またよろしくお願いします。
私は私のまま、心に青を抱いたまま、これからも歩き続けます。