自己満足と劣等感の話

こんばんは、氷雨です。
先に断っておきたいのですが、今日お話することはあまり愉快な話ではないと思います。私に失望するかもしれませんし、私を嫌いになるかもしれません。それはそれで仕方がないと思います。その程度の覚悟くらいは持って、私はこの記事を投稿します。
それでも読んでやるよ、という方だけこの先にお進み下さい。


はい。まだ読んでくださっている皆さんはお付き合い願います。
実は先日、私のフォロワーさんからこんなアンケートが投稿されました。
「あなたは推しを自己満足のために利用したことはありませんか?」
私は即座に「ない」に入れましたが、結果がかなり拮抗していたことに私は少し愕然としました。結局誰かを推すという行為は自己満足なのだろうか?と。


そもそも、ここでいう"自己満足のために利用"とはどういうことを指すのでしょう?
TwitterでRT・いいね稼ぎのために無断転載することでしょうか?
お手紙やラジオでメールを送ってアピールすることでしょうか?
CDこんだけ積んだ俺つえーwをするような人のことでしょうか?
フラスタを贈ることも結局は自己満足だと言えるのでしょうか?
要するに、推しをマウントを取るために利用してませんか?ということ。


先ほども申し上げたように、私がしていることは自己満足のためなんかじゃないという確信がありました。前回『「認知」されるということ』の記事でも書かせていただいた通り、私の行動原理は全て推しの笑顔のため、という揺るぎない自負があったのです。


殊に御花企画に関しては、私にとってその最たる例でした。
とあるキャスを拝聴していた際、「フラスタ出す金があるならグッズ買った方が良いから完全に自己満」という意見を述べられている方がいて、正直かなりイラつきました。

確かにそうかもしれません。本当に見てくれるか分からない、なくても困らないものに時間と労力とお金を掛けるのはある意味で馬鹿げた行為なのかもしれません。
それでも、好きな人が御花を見て笑顔になってくれると信じているのです。
決して自己満足のために御花を出しているわけではありません。


もちろん数ある御花企画の中には、主催者の名前だけ目立たせてみたり、大きめに強調したりするようなネームボードがないとは言えないでしょう。
しかし私は主催者も協賛者の方も全て一律、同列、横一線だと思っています。
そこに優劣なんてない。私は気持ちの大きさに優劣なんてつけたくない。
だから自分の名前を目立たせるようなことはしていないし、全ての参加者の皆様を同じフォントで掲載させていただきました。


御花を贈ったこともない人に、自己満呼ばわりされる筋合いはねえと思いました。
昨晩までは。

敢えて名前は伏せますが、某ラジオの放送作家の方が次のようなことを仰ったのです。
噛み砕いて言えば、以下の通りです。


・「同じ人のメールばかり選んでる」という嫌味をハッシュタグ付きでツイートする人がいるけど、そんなことはしていない。
・そういうツイート、スタッフだけではなく推しも見てるけど、嫌われるかもしれないという覚悟を持ってツイートしてますか?
・意見は受け止めるけど、全てに応えられるわけではないし、番組の方向性を考えた上で、敢えて採用していないだけですよ。


私は、自分で自分に失望しました。
何故なら、私も「同じ人ばかりじゃん」と感じていたからです。
ハッシュタグ付きで嫌味を言ったことはさすがにありませんが、あまりに読まれなさすぎてネガティブなツイートをしたことがあります。



敢えて引っ張り出してきました。リプライ先ではさらに愚痴をこぼしています。
さすがにTwitterでは自重しましたが、正直同じリスナーのお名前を聞く度に「またか」という諦めしか感じられなかったし「メール送るのが楽しい!」なんてツイートを見る度に「それはあなたが読まれてるからでしょ」と冷ややかな目で見ていました。


それはお前に文才がないから。根気が足りないからだ。改善すればいいだろう。
本当にそうでしょうか?

私が初めてこの大好きなラジオにメールを送ったのは2015年3月でした。ちょうど公録があった頃ですね。それから別のラジオが始まって、そちらと合わせてこの5年余りで私は合計30通送っています。年間にすれば平均で6通です。
いや、少ねえよ。そんなんで読まれるかよという声が聞こえてきそうです。
確かに根気は足りていなかったのかもしれません。


しかし私は少しばかり文才に自信がありました。
中学の頃、夏休みの課題に人権の作文とかありませんでしたか? 私はそれで賞をいただいて、ラジオで朗読したことがあります。高校の頃、校内弁論大会で優秀賞をいただいたことがあります。大学時代、とあるサークルでネット小説を披露していて、内輪ですが結構評判が良かったです。
いや、知らねえよ。その通りです。


けれど、その時の私には実際に採用されている方々のメールを読み返してみても、自分のメールが特別劣っているとはとても思えなかったのです。
「メール職人 採用 コツ」なんかでグーグル検索して、ネットサーフィンに一日を費やしたこともありました。それくらい研究していたし、イベントがあったらすぐにメールで感想を伝えるように心掛けてもみました。
そろそろ一度くらい読まれてもいいだろう。そんな傲りがずっとどこかにあった。


ついぞ読まれていません、未だに。私の聴いた限りでは。
そんな折に、作家の先生の先ほどのツイート。
私は自分の行いに気が付きました。
いつしか「読まれること」が主眼になっていたことに。
これこそ、私があれほど忌み嫌っていた「自己満足」でしかないことに。


私はパーソナリティーを喜ばせるメールを送る、という初心を忘れていたのです。
私のちっぽけな自負は砕け散りました。殊「ラジオにおけるメールを送る」という行為に関して言えば、私は自己満足のために送っていたことになるのです。


そもそも。100%自己満足でない応援、なんてものは存在しないのかもしれません。
0対10にはなり得ない。だったら、少なからず自己満足したい、承認欲求を満たしたいという思いがあっても別に悪いことだとは思えません。

それでも、私の価値観においては、限りなく0対10に近付けたいんだと思います。
自己満足なんかじゃない、推しの笑顔が見たいという純粋な応援の形。
それが本当にその人のことが好きだということなんじゃないかと思っているからです。


長々と自分語りをしてきてしまいましたが、作家の先生がご指摘くださったことに私は心から感謝しています。先生には別に何のメリットもないのに、敢えてSNSで発言してくださったことは意義があることだと感じています。
実際、私のようなやつにも大きな気付きを齎してくださいました。


改めて自分の推しへの思いを考えて。
今度メールを送らせていただく折は、採用ありきなんかじゃない、パーソナリティーを喜ばせてあげられるような心のこもったメールを心掛けようと思います。
煽られて気持ちの悪いメールを送ったこと、心から反省しています。
あんなメール読まれなくて良かった。先生、止めていただいてありがとうございました。