声優は偶像崇拝なのか

声優という職業はこの20年余りで随分と様変わりしたように思う。役者としての演技力に加えて、歌って踊れて見た目も良く、トークスキルもある。

出演する番組の番宣イベント、冠ラジオ、さらには歌手活動。平たく言えば、裏方というイメージは過去のものとなり、表に出る機会がずっと増えた。


アイドル声優」という言葉が生まれたのもここ数年だと思う。
アイマス」「ラブライブ」といった「アイドル関連コンテンツ」が火付け役となって、「声優」と「アイドル」の境界は曖昧なものになっていった。
同時にオタク側も、その境界を判別し分けて考えることが難しくなった。


さて、かくいう私も「声優さん」を応援しているファンの一人である。
タイトルに対する私の答えは「部分的にはそうだが、どうでもいい」だ。

いわゆる「ドル売り」を嫌がっている声優さんは結構いると思う。
それは「私は偶像崇拝の対象ではない」という心の叫びかもしれない。
だから、言ってしまえば「その人の活動による」ということになる。


「部分的にそう」と言ったのは、以下のような理由からだ。

基本的に演じるキャラクターを壊してはいけないということ。
求められればイベント等で、人前に笑顔で立たねばならないこと。

(社会人として常識とも言えるが)出演する作品がどんなにつまらないものだと思っていても、それを表立って口にすることはできないこと。


これはある意味「偶像を守る」という行為に繋がらなくもない。
とは言え、社会的活動を行う人間ならどんな人間でも、多かれ少なかれ一定程度の制約の中で、ある側面だけを強調して見せることはあるだろう。


例えば、私はネット上で「氷雨」と名乗って声優ファンをやっている。
見方を変えれば、これは果たして私の「素」なのか、ということだ。

推しに狂うガチ恋オタクを演じている、偶像である可能性はないのか?
身内にそうした役割を(無意識に)求められ、ある種のエンターテイナーとして面白おかしく消化してもらうために「演じている」ことを否定できるだろうか。


それは本人以外に誰も否定できない。である以上、考えても仕方ない。
一応断っておくが、ネット上の「氷雨」もまた私だ。私の一面なのだ。
多少狂った発言を盛ることはあっても、そのように「演じて」はいない。


一人の時の「自分」
ネット上の「自分」

家族といる時の「自分」
友人といる時の「自分」

会社にいる時の「自分」
それは全て「自分」であり、ある「側面」が表に出てきているだけだ。


であるとしたら、たぶん声優さんもまた、同じなのだと思う。
それが「素」かどうかは分からないが、間違いなく「一面」ではある。

じゃあユニット活動はどうなんだとか、他の声優さんはどうなのかとか
色々と意見はあるのかもしれないが、少なくとも私はそう感じている。


私の応援する人は言った。
「これが、皆が、応援してつくってきてくれた――」

それが「素」なのかどうかは、私たちファンには分かりようもない。
ただ、彼女と彼女を応援する人たちが歩んできた道や、時間は真実だ。


その「一面」を形作ってきたのは彼女であり、私たちなのだと思う。
感極まった折、推しの口から出てきたあの言葉は、信じられるものだ。

仮に最初は「偶像」であったのだとしても、それは「実像」へ変わる。
私はもっと、彼女の実像に近付きたい。ファンとして、そう願っている。