『ギャップ』の魔力

こんばんは、氷雨です。
突然ですが皆さんは『ギャップ』と聞いて、何を連想しますか?

元々は稜線がV字型に深く切れ込んでいる所を指す登山用語らしいのですが、専ら「物理的な隙間や溝」「考え方の食い違いや意見の隔たり」を表す言葉で、世代間格差のことを「ジェネレーションギャップ」などと表現したりします。


「ギャップ萌え」なんて言葉もあるように、大半の方が最近は「いい意味」で捉えることが多いように感じる「ギャップ」という言葉。

実際、私が敬愛する声優・雨宮天さんも「ギャップの女神」のような御方で、クールビューティーな外見とは裏腹に、義理堅く人情に厚い、感情にとても素直なクソガキお茶目な中身が、人間味に溢れた魅力的な方です。


TrySail冠番組「Tryangle Harmony」というラジオでは、かつて「天なのにっ!」というご自身のお当番コーナーもありました。

奇跡のギャップ人・雨宮天さんの「意外な一面」を募集し、ユニットの3人全員が「採用」したら、天さんのプロフィールに掲載しよう!という「公式がそんな面白いことしてんの?」と突っ込みたくなるようなコーナーでした。


ただ、一口に「ギャップ」と言ってもやはり負の側面もあって、今回ちょっとばかし話題にしたいのはそちらの方だったりします。

一番分かりやすい例で言えば「理想と現実のギャップ」ですよね。
現実が理想に追い付いて行っていない、隔たりがある状態です。



これは私が少し前まで物凄く感じていたことなんですけど、周囲の評価と自己肯定感に大きな隔たりを覚えていた時期がありました。

私は天さんに何か気持ちをお返ししたい、感じている想いや感謝を形にしてお届けしたいという一心で、ここ2~3年の間に様々な施策を試みてきました。

その過程で私が思っている以上に、色んな方に名前を認識していただき、有り難いお言葉を頂戴する機会が本当にたくさん増えました。


そのこと自体は言葉にならないくらい光栄で、有り難いことなんですけれど、元々自己肯定感が低いゆえに褒められ慣れていない弊害というやつなのか、いただいた言葉をどう受け取けとればいいのか、正直すごく困惑していました。

師匠だとか、尊敬しているといった言葉をいただく度に、私はそんな言葉をいただいていい人間ではない、と本気で悩んだこともあります。


ガチ恋ツイートなんかも、私としては意味があって発言しているという趣旨のことを過去の記事で明らかにしたことがありますけれど、ある意味で逃げ道のひとつだったのかもしれないな、なんて思ったりもして。

一見すると頭がおかしいことをツイートしてイジられていた方が性に合っているというか、余計なことを難しく考えずに済むというか、変な話ですが「演じていて一番"ラク"なキャラ」だったのかもしれません。


もちろんツイートしている内容は全て本心ですし、天さんが好きな気持ちに嘘偽りなんて1ミリたりともありませんが、本当の自分って何だろうなあ、とか考え始めると際限がないのもまた事実だったりします。

SNSが発達して、誰もがネット社会における「もう一人の自分」を持つようになって、それが限りなく現実という名のリアルと重なるようになったことで、かつてのようにHNが"匿名性"を持たなくなりました。


そんな事を考えていた折、感情のバロメーターがマイナスに偏ってしまった時期に、ちょっとしたお叱りの言葉をいただいたんです。

内容については触れませんが、その言葉を咀嚼した上で感じたのは
「自分の言葉がもたらす周囲への影響」を正しく認識する必要性。

自己否定ばかりしていないで、いただいた言葉をありのままちゃんと受け止めることもひとつの責任なんだ、と感じるようになりました。


いただいた言葉に向き合い、応える。
それが責任でもあり、真摯さ誠実さなんだと。
自己否定は、ある意味で逃げなんだと、感じました。

何事に対しても、事実を正しく認識し、向き合う。
それを念頭に置いた上で改めて、好きな人が歌として届けてくれた言葉の一つひとつの意味が、また少し深まったような気がします。