推しが推しであるということ

こんばんは、氷雨です。
2019年もひと月が過ぎて早くも2月ということで、もはや月1ブログ感が
半端ないわけですが、あまり気にせず今日も書いていきたいと思います。

今日のテーマは「もしも推しの人格が他の人と入れ替わったら?」です。
はい、何いってんだこいつ……。と思われた方もいらっしゃるでしょう。
とりあえず順を追って説明しますので、どうぞお付き合いいただければ。

2~3週間ほど前、唐突にSNSでとある人からこんな質問をもらいました。
「もし天さんともちょの中身が入れ替わったら、どちらを推しますか?」
つまり容姿と声はそのまま、人格だけ入れ替わってしまったわけですね。


私も最初は急に何言ってるんだ?と思ったんですが、結構面白くて深い
テーマですよね、これ。私も割と真剣に考えてしまったんですけれども、
その人が推しのどこを好きなのか、本質的に問われている気がしました。

それと同時に、その人をその人足らしめているものは一体何であるのか。
外見に付随して命名された記号的名前か、はたまた人格そのものなのか。
ある意味、哲学的レゾン・デートルな話にもなってくるわけですが……。

私が天さんを好きになったのは第一に声。そしてクールビューティー
容姿の割に、コロコロ変わる表情と悪ガキ少年のような性格のギャップ。
これ、青き民だったら多くの人がそうなんじゃないかと思うんですけど。


つまり、きっかけは声だし容姿も好きだけど、中身が天さんでなければ
ここまで好きになっていなかったかもしれない。で、私の出した結論は
「中身が天さんのもちょを推す」でした。

今の私は天さんの性格をそれなりに心得ていますので、声と外見という
外面的要素が異なっても、天さんを天さんたらしめている人格を選ぶと
思いました。外見がもちょ、というのも少なからぬ要素ではありますが。

この命題に正解はありません。単なる非科学的if話の延長に過ぎません。
皆さんがどう考えるのかも自由ですが、私はその考えに関心があります。
このブログを読んで考えてくださった方はお聞かせ願えればと思います。