取り戻した想い

2020年9月27日を最後に一度SNSから距離を置き、ずっと考えていた。
青き民の一人として、私はどうしたいのか。どうありたいのか。
何がしたいのか。何をしたくないのか。私の信じるものとは何なのか。


Q:どうしたいのか?
A:天さんに笑顔でいてほしい

Q:どうありたいのか?
A:推しに見合うファンでありたい

Q:何がしたいのか?
A:届けてくれる気持ちを受け取ってお返ししたい

Q:何をしたくないのか?
A:天さんを悲しませること

Q:信じるものとは何なのか?
A:私のしてきたことが、少しは天さんの笑顔に繋がる


しかし、それが独りよがりの行動なのでは意味がない。
以前記事にしたように、私は「自己満足」を忌み嫌っていた。
己の中の「自己満足」に、ずっと抗い続けてきたのだ。

私の気持ちは、行動は、決してそんなものではない、と。
だから、仲間の気持ちを集めて、届けることを大切にした。
ところが「その日」、私の信じるものが大きく揺らいだ。


発端は「A賞・生電話」と「ラジオのメール」である。
私は密かに「ライバル視」している青き民の方々がいた。
接近常連のあの人、お便りを毎週読まれるあの人、など。

そうだ。「彼ら」は「単独」で、憧れ続けている「彼女」と、
心を通じ合わせ、それを確信できる「機会」を勝ち得ている。
彼らが「勝者」で、私は「敗者」で「負け犬」なのだと感じた。


芽生えたのは「劣等感」で、「嫉妬」で、「自己嫌悪」だった。
そう思ってしまったことに、自分自身に対して愕然とした。
想いが強すぎて、私は仲間に「敵意」を抱くようになっていた。

ここでも何度となくお話している『誓い』メイト回リリイベ。
私が天さんに、彼女を支える青き民に大いに「敬意」を抱き、
自分自身も「本気」になることを誓った、忘れ難い大切な原点。


けれど、いつしか「敬意」は「敵意」に変わってしまったのだ。
そのことに気付いたから、私は天さんとSNSから距離を置いた。
今の自分は、私が理想とするファンの姿から程遠いものに思えた。

だが「ガチ恋」で「ツイ廃」の私には、簡単なことではなかった。
ファンになって「彼女」のことを考えなかった日は一日もない。
考えないのはそもそも無理な話だった。距離を取るのがやっとだ。


止む無くTwitterをアンインストールする強硬手段を取ってみたが、
それをツイートしようとする自分に愕然とした。色々末期である。
それでも、自分を見つめ直す時間は十分すぎるくらいに取れた。

そんな時も頭の中に浮かぶ言葉はいつだって「彼女」のものだった。
「Song for」であり「Next Dimension」であり「Queen no' cry」だ。
無意識に涙が溢れた。一度流れた涙はなかなか止まってくれない。


大切なものは、信じたものはいつだって「そこ」にあったんだ。
涙を流しても、傷ついて立ち止まっても、かっこ悪くてもいいのだ。
ただ、私は私らしく。「私」は「私」でさえあればよかったのだ。

誰が為じゃなく。もがいてできた心の傷さえ、勲章にしてやろう。
私は私の信じる心を、信じた道の美しさを大切にすればいいのだ。
物語は自分にしか描けない。溢れ出した涙は、光に変わった――。


とまあ、随分とポエム染みてしまったが、私は原点を取り戻した。
いつだって「天さん」と「青き民」へのリスペクトを忘れずいよう。
やってきたことへの「自負」はあっても、「傲って」はいけない。

そして、天さんはあくまで「自分のしたいこと」をしているのだ。
であるならば、私も「天さんの笑顔のために」という前提は崩さず、
「私のしたいこと」をすれば良い。シンプル イズ ベストである。


「勝者」と「敗者」だとか「見返り」だとか「承認欲求」だとか。
そんなもんは、全部クソ喰らえだ。必要ない。吐いて捨てればいい。
「彼女」も言っていたはずだ。「好きを楽しまなきゃ損」なのだ。

というわけで、今日から少しずつ復帰して参りたいと思います。
御心配をお掛けしてすみませんでした。またよろしくお願いします。
私は私のまま、心に青を抱いたまま、これからも歩き続けます。